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2016.08.10 (Wed)

【妻】逝きし日の面影

「ヌマに喰われる」のブログ記事を書いた時点で読んでいた、渡辺京二さん著の『逝き日の面影』(平凡社)を未だに読んでいます。



他の本も挟みながらゆっくり読んでいるのでなかなか終わらず、まだ読みかけですが、とてもいい本だと思います。嬉しくなっちゃうぐらいいい本なのと、一つ前の記事に少し関係があるので、読みかけだけど記事アップします。

右寄り、保守の方たちは、この本、好きだろうなぁ。

でも、自分のことを右よりじゃないと思っている私も、好きだなぁ。

かなり思い切って発言しますが、私、教育や環境によって、日本人であることにコンプレックスを持たされてきた部分って、やっぱりあると思うのです。

西洋に比べて日本では、本当の個人主義がきちんと発達していない(個が確立していない)、過去に間違った戦争をしてしまい、日本だけがその総括もしていない、真面目で勤勉だけど自由な発想がなくオリジナリティに欠けている、などなど、本当のことも本当じゃないことも入り混じって、結構なコンプレックスになっている。

でも、この本読んでいると、江戸時代の日本人がいかに愉快で闊達で気持ちの良い人々だったか、いかに礼儀正しく綺麗好きで、善良な人々が多かったか、日本がいかに美しく住みやすい国だったかが、日本に来た外国人の眼で延々と描かれています。

たとえば、
「誰の顔にも陽気な性格の特徴である幸福感、満足感、そして機嫌のよさがありありと現れていて、その場所の雰囲気にぴったりと溶け合う。彼らは何か新しく素敵な眺めに出会うか、森や野原で物珍しいものを見つけてじっと感心して眺めている時以外は、絶えず喋り続け、笑いこけている。」(p.75: 横浜、東京、大阪、神戸の水道設計によって名を遺した英国人ヘンリー・S・パーマーの記述より)

「日本の民衆ほど善良な人が他に見いだしがたいことは否定できないのではなかろうか」(p.89: パーマー) 

「人々は楽しく暮らしており、食べたいだけは食べ、着物にも困ってはいない。それに家屋は清潔で、日当たりもよくて気持ちがよい。」(p.102: 合衆国外交官ハリスの記述より)

「彼らは皆よく肥え、身なりもよく、幸福そうである。一見したところ、富者も貧者もない。―これがおそらく人民の本当の幸福の姿と言うものだろう。私は時として、日本を開国して外国の影響を受けさせることが、果たしてこの人々の普遍的な幸福を増進する所以であるかどうか、疑わしくなる。(中略)生命と財産の安全、全般の人々の質素と満足とは、現在の日本の顕著な姿であるように思われる」(p.121:ハリス)

「日本人の農業技術はきわめて有効で、おそらく最高の程度にある」(p,112: 長崎商館長メイランの記述より)

「農家と茶屋がたがいに間を置いて続き、その概観によって、住民の間に満足とつつましいゆたかさがゆきわたっていることを示していた。花々もまたおのれの魅力によって貧しい人びとの住居を活気づけ、自然の詩趣をあたりにまきちらす」(p.120: オランダの軍人、政治家カッテンディーケの記述より)

「気楽な暮らしを送り、欲しい物もなければ、余分な物もない」(p.125: 英国の医師であり外交官のオールコックの記述より)

「さてこれからが、子供たちの収穫の時です。そして子供ばかりでなく、漁に出る男のいないあわれな後家も、息子をなくした老人たちも、漁師たちのまわりに集まり、彼らがくれるものを入れる小さな鉢や籠をさし出すのです。そして食用にふさわしくとも市場に出すほど良くない魚はすべて、この人たちの手に渡るのです。……物乞いの人にたいしてけっしてひどい言葉が言われないことは見ていて良いものです。そしてその物乞いたちも、砂丘の灰色の雑草のごとく貧しいとはいえ、絶望や汚穢や不幸の様相はないのです」(p.131: 英国公使ヒュー・フレイザーの妻メアリの記述より)

「金持ちは高ぶらず、貧乏人は卑下しない。……ほんものの平等精神、われわれはみな同じ人間だと心から信じる心が、社会の隅々まで浸透している」(p.129: 英国の日本研究家チェンバレンの記述より)

「都会や駅や村や田舎道で、あなたがたの国のふつうの人々と接してみて、私がどんなに微妙なよろこひを感じたか、とてもうまく言い表せません。どんなところでも、私は、以前知っていたのよりずっと洗練された立ち振る舞いを教えられずにはいなかったのです。また、ほんとうの善意からほとばしり、あらゆる道徳訓を超えているあの心のデリカシーに、教えを受けずにはいられませんでした」「日本には、礼節によって生活を楽しいものにするという、普遍的な社会契約が存在する」(p.181-182: イギリス出身の新聞記者エドウィン・アーノルドの記述より)

日本ってこんなにいい国だったのか!と嬉しくなります。

目からうろこが落ちまくりです。

なんで、これまでいわれのないコンプレックスを持ち続けてきたんだろう?と思っちゃいます。

「江戸時代は過酷な年貢によって人々は苦しめられ、農民は生かさず殺さずの状態で搾取されていた」という定説(少なくとも私の年代では学校でこう習った気がする)は何だったんだろう?


ちなみに渡辺京二さんは右翼ではないと思います(笑)。

この本も、「日本礼賛!」って感じじゃなく、抑制のきいたものとなっています(ただ、日本を訪れた外国人の日本礼賛がすごいから、それを引用するだけで日本礼賛になっちゃう)。

渡辺さんは、この素晴らしき日本を、産業革命が生み出した貧富の格差や工業都市の惨状が忍び寄る前の牧歌的な風景と捉えているようです。

そして、このような牧歌的な風景は工業化が到来する以前のイギリスにも見られたというエンゲルスの記述を紹介しています。

つまり、「日本が素晴らしかった」というのもあるでしょうが、それ以前に、工業化の波が訪れる前の牧歌的な社会はそれなりにとても幸せだったということなのでしょう。

それにしても、江戸時代、大分汚名を着せられてませんか?

その流れで、私たち、いわれなきコンプレックスを持たされてませんか?

もしももしも、このコンプレックスのもととなっている「日本人はダメだ」という教育や空気が、なにかと左寄りな日教組の唯物史観による歪曲なのだとしたら、何かと西洋コンプレックスのある知識人の行き過ぎた自己批判精神によるものなのだとしたら、なんか腹が立つ。

日教組をきらう右翼の人たちの気持ち、なんかわかる。

もちろん、そもそも戦争は間違った判断のもとで発生してしまうものだと思う。日本が始めた戦争も間違っていたと思う。


日本は江戸末期に開国を迫られて、外国の脅威があって初めて近代化の道を歩み始めた遅れてきた国の一つだとも思う。

でも、そのことと、日本や日本人の素晴らしさを断固斥けて、後世に伝えないようにすることとは、全く別の話じゃないか!

渡辺さんは、歪曲された認識について、次のように述べています。

「日本の知識人には、この種の欧米人の見聞録を美化された幻影として斥けたいという、強い衝動に動かされてきた歴史がある」(p.20)

「古い日本を賞讃されることに抵抗をおぼえる心的機制は、けっして戦後の産物ではないのだ。だが当時の当時の日本知識人が歩もうとしていた進歩と強国への道は、今日の彼らの末裔にとっては恥ずべき過去のひとつにすぎない。日本の美化を拒否すると言う心的機制自体、ひとつの進化の歴史をもつものである。今日の日本知識人が「妖精の棲む小さくてかわいらしい不思議の国」というアーノルド的イメージを否認するのは、明治三十年当時とは違って進歩という価値基準のためではない。それはもはや信奉されざる用済みの基準である。彼らがそういうイメージ、とくにハーンやモラエスによって流布されたイメージに根強い嫌悪感と軽蔑をおぼえるのは、むろん、それが日本の伝統主義者や民族主義者の主張する誤った民族的な一体感や自負心を助長すると考えるからである。」(p.21-22)

つまり、明治時代には「西洋に遅れたダメな日本」という認識が日本礼賛を斥け、その後には「近代化を強硬に推し進めて、あげくに民族主義的・全体主義的な一体感のもと戦争に突入してしまった」という反省が日本礼賛を斥け、常に「日本ではない何か」を求める反省好きの日本人の心性を作り出してきてしまったということでしょう。

渡辺さんは「今日の日本の論客は、彼らの日本賛美をオリエンタリズム的幻影として否定する一方、彼らの日本批判については鬼の首を取ったように引用し、まったく無批判に受容しているのだ」とも言っています。

でもね、「昔の日本人の知恵に学べ」という考え、今では多くの人が持っていると思う。

右寄り保守の人だけでなく、「みどりの党」の人とか、三宅洋平さんとか、その辺の人は結構持ってると思う。

でも、この方々、世間的な言い方すれば、かなり「左」寄りな人々だと思う(今の時代、単純に右とか左とか言えないけどね)。

「革新」と言われる「左」な人々が、伝統を大切にする「保守」的な思考を持っていたりするのが、今なんだよね。

フクザツです。

左寄りな人って、一部の右翼の人が言うような「売国奴」じゃないよ。

古き良き日本の伝統に学ぼう、学ぶべきところはきちんと学ぼうという姿勢を、強く持っている人たちだよ。

昔の日本人はすごかった→現代人も資本主義のお金ワールドから片足下ろして、昔の日本人に倣って自分の暮らしを手作りしよう、というのが三宅さんとかの方向性の一つじゃないかと思う。

昔の日本人はすごかった→日本人は特別な民族→最強の日本を復活させるべく国防軍を持って戦争できる国にしよう→そして、素晴らしい日本の国体を守るため、人々にも協力してもらおう。そのためには「人権、人権」「国民主権」「平和主義」なんて言ってないで、少しは我慢してもらおうというのが、一部の右翼の人たちの考え方なのかな、と思う。

どっちも日本を、自分の故郷を愛しているんだよ。

どこかで、わかり合えないのかなぁ。共感できなかったとしても、合意できないとしても、「あなたの言いたいことはわかる」って地点があれば、話し合えるよね。

一つ前のブログ記事に書いたけど、私はあえて言うならマイルドな左よりだと思うけれど、保守の人の気持ちもわかるところがある。

この間帰省した時に聞いたのだけれど、このところ父が通っている座禅会には、日本会議の人たちが、どうやらたくさんいるらしい。けど、日本会議といっても、私たちと同じような末端の庶民は、本当に純朴で信仰心のあつい、故郷を愛する人なんだって。そんな人と、接点がないはずないじゃない?

今の政権の、話し合いを避けて人が気づかぬうちに、うやむやのうちに、変えてしまおうというやり方、やっぱり極端だと思うな。異なった意見を持った人同士が対話できる地点があることを信じて、根気よく考え続け、話し合い続けることを、放棄しているように見える。


少し話はかわるけど、『逝きし日の面影』を読んでいて、「ラダック、懐かしい未来」という映画を思い出しました。映画の内容は長くなるので、また機会があれば書きたいと思いますが、工業化された高度文明世界との接触によって、長く続いた伝統が崩れていく様は、ラダックと同じだと思った。

ちなみに『逝きし日の面影』の作者は、だからと言って、昔バンザイ!というわけでもなく、人々が連体感を持って生きていた時代の良さを認識すると同時に、自立した個人が、自由と責任を自ら引き受けつつ磨いていくような高次の精神的活動とは無縁の「ある種の子供っぽさ」を、この頃の日本人は免れていなかったことも指摘しています。


さてさて、長すぎるプログ2連発、そろそろ終わらねば。

お金による"ステキな分業”(特に人とのつながりがなくともいろんなことがお金で解決できる便利な暮らし)と、

持続可能な自給的循環生活(自然、人、環境とのつながりの中で生きていく、面倒くさくも、ぬくもりある暮らし)の狭間で、

「さて、これからどうするか?」

このまま新自由主義的な行き過ぎた資本主義を続けていけば、おそらく地球環境はどんどん破壊され、多くの人間にとって住みにくい場所になっていくでしょう。

社会も、経済格差も広がり、おそらく弱者が生きにくい世の中になっていくんじゃないかな。ピケティさんも言っているように。

その結果、不満の吹き出し口としてテロをはじめとする犯罪も増え、結果的に全体的に住みにくい世の中になってしまうかもしれない。

でも、今の便利な生活を手放すのはとうていできそうもない。

その狭間で、随所で様々な選択を迫られているのが、日本に限らず、現代に生きる人々なんじゃないかと思う。

てなわけで、『逝きし日の面影』から、日本人が日本を見る眼差しのこと、政治的な立ち位置のこと、変わってしまった社会のこと、いろんなことを考えさせられました。

長いくせに、気の利いた落ちのない話ですみません。

『逝きし日の面影』、”今だけ、金だけ、自分だけ”主義が横行していると言われる今だからこそ、しみじみと読んでほしい本です。
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